なぜ舊字を學ぶのか?
答へは分かりません。結局、舊字を學ぶ事は趣味でしかなひので....
しかし、私多志がこの様に學ぶ理由は、一つは父が佛教徒(ぶっきょうと)である事が關係してゐると思ゐます。
私多志としては、さほど佛教に關心も、そこまで熱心な人間では無ひと思ひます。
ですが、良か惡か分かりませぬが、佛教の考へは、直感的に、感覚的に、道徳的に今の私多志の價値(かち)基準を形成しました。
倫理的に正しくある事、神佛を敬ふ事、自然を大切にすること、何が眞實(しんじつ)かを見極め、追い求める事。
それは、私多志が意識をして、さふなつた譯ではなゐですが、私多志はこの家に生まれ、私多志の意思に反してですが、この様な價値基準が出來たのではと思います。
だからこそ、舊字を含めて、古い物に敬意を払ひ、残したゐと感じます。(直感的ですが)
少し前に、人間の住居の爲に、私多志の家のそばにあつた本當(ほんとう)に小さな神社(じんじゃ)が壊されました。悲しくも思いましたし、同時に罰あたりだと思いました。
私多志はどちらかと云ふと、合理的な思考や冷淡な考へを持ちます。ですから、ユダヤの考へやこの世界が金が全てである事も理解できます。
しかし、金で腹は満たせても、生きる爲に必要な”本質”は満たせぬと感じます。物事の”本質”を理解せねば、人生に希望も指標も持てないと思います。
その様な考へは、役に立たず、無駄な事だと云う人も居るでしょう。ですが、もしそれを捨て去れば、人生に意味あらず、機械的に生きることだけになります。
私多志は、機械として、社會(しゃかい)の歯車としてあるのではなく、一人の人間、生命、個人として生きていたいと思います。
それは非道く、苦しい道だと思いますが、惡くはないのではないかと思います。
舊字とは關係(かんけい)のなひ話ですが、結論としては、僕はせつかく學んだ事だし、もう少しだけ勉強してみようかなと思います。
では、舊字を學んで良かつた點(てん)をゐくつか紹介します。
①安價で質の良ゐ本が手に入る。(古本屋で)
②個性が出る。(厨二病的發想ですが)
③字が綺麗に描ける。
それぐらゐですかね..,私多志の中では、今の中ではこれしか思ゐ盡きませぬ。
私多志は、日本人だから舊字を學ぶべきとか、そんな發想はございません。
しかし、學ぶ事は樂しゐですし、自分に新たな可能性を與へます。(あたえます)
後でひくつか資料を書きますが、ちょつとした歴史學習の遊びとして學んでみてください。
資料